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ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃) : ミニ英和和英辞書
ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)[ひ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王妃 : [おうひ]
 【名詞】 1. queen 
: [ひ]
 【名詞】 1. princess 2. consort 

ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃) : ウィキペディア日本語版
ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)[ひ]

ジョーン・オブ・イングランド(Joan of England, 1165年10月 - 1199年9月4日)は、シチリアグリエルモ2世の王妃、後にトゥールーズレーモン6世の妃。イングランドヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの三女。イタリア語名はジョヴァンナ・ディンギルテッラ(Giovanna d'Inghilterra)、フランス語名はジャンヌ・ダングルテール(Jeanne d'Angleterre)。
アンジューで生まれ、母の宮廷のあるウィンチェスターポワチエで育つ。1176年、シチリア王グリエルモ2世が大使を派遣し、ジョーンとの結婚を申し出た。婚約は同年5月に整い、8月にはノーリッジ司教、5代サリー伯ハムリン・ド・ウォーレンらに付き添われてシチリアへ出発した。ジョーンの兄2人、若ヘンリールーアンからポワチエ、そのあとをリチャードが引き継ぎポワチエからサン=ジルまで妹を護衛した。サン=ジルではシチリア王の代理人であるカプア大司教アルフォンソ、シラクサ司教リチャード・パーマーらと、彼女の随行員が面会した。
危険の多い航海ののち、1177年2月に無事シチリアへ到着し、パレルモ大聖堂で結婚式と戴冠式が挙行された。2人の間には1181年に長男ボエモンドが生まれるが夭折し、あとに子は生まれなかった。1189年にグリエルモが亡くなると、ジョーンは新王タンクレーディに捕らえられた。1190年、ジョーンの兄リチャード1世が聖地への途上イタリアへ上陸した。彼はジョーンと彼女の持参金を返すようタンクレーディに要求した。タンクレーディがこれらの要求を渋る様子をみせると、リチャードはバニャラ城の支配権を奪った。彼は一冬をイタリアで過ごし、メッシーナの町を征服した。たまりかねたタンクレーディは、要求を飲みジョーンを解放した。1191年3月、リチャードの婚約者ベレンガリアを連れて母アリエノール・ダキテーヌがメッシーナへ到着した。
アリエノールは、ジョーンにベレンガリアの後見を託すとアンジュー帝国へと帰っていった。リチャードは聖地での結婚を決め、婚約者と妹を連れて出航した。2日すると艦隊はひどい嵐に見舞われ、ジョーンとベレンガリアの乗船する船も破壊された。リチャードは被害もなくクレタ島へたどりついたが、2人は近くのキプロス島へ流されてしまった。キプロスの独裁者で太守のイサキオス・コムネノスは、イングランド王の艦隊が突然現れると、たちまち拿捕した。ジョーンとベレンガリアは無事だったが、リチャードの軍資金もろとも捕らえられてしまった。リチャードは2人の引渡しを丁重に要請したが拒否されたため、イサキオスを追跡し捕らえた。キプロスを占領したリチャードはベレンガリアと結婚し、次にアッコンへ到着した。
ジョーンはリチャードのお気に入りの妹だった。彼は一度、サラディンの弟アル=アーディルとジョーンを結婚させ、2人をエルサレムの共同統治者にしようと考えた。しかし、ジョーンがイスラム教徒との結婚を拒み、アーディルもキリスト教徒との結婚を拒絶したため、この計画は実現しなかった。同じ十字軍に途中まで参加したフランスフィリップ2世は、当時最初の王妃を亡くしており、シチリアで対面したジョーンと再婚したいと考えたようだが、これも実現しなかった。
1196年、ジョーンは対フランス政策の一環で南フランスのトゥールーズ伯レーモン6世と結婚した。持参金としてクエルシーとアジュネがレーモンにもたらされた。彼女はトゥールーズ伯レーモン7世となる息子を翌年出産した。
レーモンにとってこの結婚は4度目であり、ジョーンの持参金めあて以外の何物でもなかった。またレーモン自身が統治能力に欠け、支配下の領主たちと始終いざこざを起こしていた。1199年、第3子を妊娠中のジョーンは、サン=フェリックス・ド・カラマンの領主が起こした暴動に、夫の不在時に直面した。彼女は敵の城の攻略を命じるが、裏切りにあい劣勢となった。生命の危機から逃れるため、夫の助けがまったくあてにならないと考えたジョーンは北へ向かい、兄リチャードの保護を求めた。しかし、リチャードはシャリュ城攻略中の傷がもとで既に死亡していた。ジョーンは領土を巡回中の母アリエノールと再会、悲しみと疲労で憔悴しきった娘を静養させるべく、アリエノールはジョーンをフォントヴロー修道院へと連れて行った。だがジョーンは回復せず、次第に衰弱していった。彼女は出産後に息絶え、死の床で尼僧として出家した。彼女の産み落とした赤子(男児だった)は、洗礼を与えられた後に短い生を終えた(リチャードという名がつけられた)。ジョーンはフォントヴロー修道院へ葬られた。50年後、彼女の長男レーモン7世は、母の隣に埋葬された。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)」の詳細全文を読む




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